松戸市って?


場所
 松戸市は、関東地方の南側、千葉県の北西部、東葛地域と呼ばれるところにあります。地図で言うと、千葉県の左上の方になります。
 千葉県の公式キャラクター、チーバくんで言うと、鼻と口の間辺りでしょうか?(チーバくんは、左側の横から見た時に、千葉県の形をしています。)
 江戸川を挟んで、地図の左下隣(南西側)は東京都葛飾区と江戸川区。左上隣(北西側)は埼玉県三郷市に接しています。
 市の西側は平野、東側は下総台地(北総台地)の端になるので、西側は平らな部分が多く、東側は高くなっている部分が多いです。



歴史
 貝塚等もあり、かなり昔から人が住んでいたことは確かなようです。城跡や古戦場もあります。ただ、領地としてはいろいろ入り組んでいたり支配者が変わったりしたため、特に有名な誰かの領地だったと言うことは無いようです。
 江戸時代は、水戸街道の宿場町、江戸川を主とした水運、そして江戸に農産物を供給する近郊農業の地として発展していました。明治時代中期に鉄道(現在の常磐線)が開通して以降、特に戦後は東京のベッドタウンとして発展し、人口は50万人弱と、千葉県では千葉市や船橋市に次ぐ三番目に人口の多い市となっています。(2013年現在)



松戸と言えば?
 松戸市で有名な物は何でしょうか? 地元の人間が全国的なことを想像するのは難しいのですが、一般的には、
矢切の渡し
二十世紀梨
マツモトキヨシ
マブチモーター
辺りでしょうか。

矢切の渡し(やきりのわたし)
 矢切の渡しは、千葉県松戸市矢切(やきり)と、東京都葛飾区柴又の間、江戸川を渡す船です。
 江戸時代、街道には関所が設けられ、人や物の出入りは厳しく管理されていました。(とは言え、実際にはいわゆる関所破りも珍しくは無かったようですが。)江戸防衛上の理由から、主要街道でも橋をかけないところも珍しくありませんでした。
 松戸もそんな場所の一つで、当時の水戸街道は、今の旧葛飾橋のやや上流を船で渡しており、関所は今の金町側(江戸側)にあったそうです。この関所は昼間のみ開いていたため、夜間は通行出来ませんでした。余談ですが、これも当時松戸が栄えた理由の一つです。水戸から江戸に向かう旅人は、夕方になると松戸で足止めされることになるため、必然的に松戸宿に泊まることになりました。
 しかし地元の農民は、農作業のため、ここを通らずとも江戸川を行き来することが出来ました。関所の場所よりやや下流の矢切(やきり)地区にある、百姓渡船と呼ばれる物です。これが現在まで続く、矢切の渡しです。かつては官営でしたが、その後民営となり、代々民営となっています。意外と知られていませんが、あれは個人経営の渡し船なのです。現存する個人経営の渡し船は、珍しいのではないでしょうか。

 最初に全国的に有名になったのは、明治時代に伊藤左千夫が、小説「野菊の墓」(1906年)の舞台にしたことです。その後は昭和の時代に、映画「男はつらいよ」シリーズにも時々出てきています。松戸市とは反対側ですが、対岸の柴又が舞台だったためです。
 そして最も有名なのは、演歌としての「矢切の渡し」でしょう。細川たかし氏の歌が一番有名と思いますが、実際には同じ歌を、7組の歌手の方々がリリースしたそうです。ちあきなおみさんのも有名なんだとか。
 矢切の渡しを舞台にした歌で、タイトルは元より、歌詞にも名前がそのまま出てきます。最近の若い方は知らないかもしれませんが、昭和の時代を知っている方なら、まず聞いたことのある歌かと思います。
 なお、歌詞ではや『ぎ』りのわたしと歌っていますが、地名としての矢切は、や『き』りと読みます。このため渡し船も、やきりのわたしです。

 元々は地元民の渡し船ですが、さすがに今の時代ですから、ほとんど観光用途です。しかも東京都の柴又側は、柴又駅から近く、途中に寅さんで有名な帝釈天があるのに比べ、千葉県の矢切側は公共交通機関にも遠く、渡ってきても特に観光案内があるわけではないので、大抵の人は柴又側から渡ってきて、すぐまた船で戻っていくようです。しかし2012/04から、地元の京成バスが、矢切の船着き場のすぐ傍まで行くようになりました。(ただし週末限定。) また、「野菊の蔵」と言う観光案内施設が2013/03に出来ました。今後、渡し船のお客様が、「柴又側から乗ってきて、そのまま戻って行く」から「矢切を楽しむ」になっていくと良いですね。

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二十世紀梨
 単体で見れば、物自体はかなり有名かもしれないのですが。残念ながら、松戸との関わりはあまり知られていません。

 二十世紀梨は、松戸市で生まれました。

 松戸覚之助と言う方が、明治時代、今で言う中学生の時に、親類宅のゴミ捨て場に芽生えていた梨を育てたのが始まりです。
 松戸覚之助氏の家は、当時梨園をはじめたばかり。覚之助氏も家業を手伝っていたそうです。たまたま親類宅のゴミ捨て場にこの梨が芽生えていたのを見つけ、興味を持って育てたそうです。育てるにはいろいろ苦労も多かったそうですが、どうにか収穫出来るまでになったところ、とても美味しい梨が出来たそうです。これが今まで続く二十世紀梨の原木です。
 確かに十九世紀から二十世紀になる頃に生まれたとは言え、明治中期に梨に付ける名前としては、随分ハイカラな名前です。今と違って、西暦と言う物がまだ一般的では無かった時代ですから。これは名付け親の渡瀬寅次郎と言う方が、札幌農学校(現北海道大学)で有名なクラーク博士に師事し、キリスト教徒だったことも関係しているかもしれません。

 松戸市から市川市、さらに船橋市にかけての台地には、今でも梨園が多く、時期になると街道筋には、梨直売の看板が並び、直売店が多く開店します。(余談ですが、松戸市の市川市に近いところには、梨香台と言う地名もあります。)しかしその中に、二十世紀梨はありません。実は松戸市では、現在は二十世紀梨はほとんど生産されていないのです。少なくとも商業ベースで生産していると言う話は、聞いたことがありません。
 この梨、味等性質は非常に良いものの、黒斑病に弱いと言う弱点があります。これは、文字通り黒い斑点が実に出来てしまう病気で、当然ながら収穫に大きな影響があります。黒斑病の主な原因は、菌です。このため梅雨時に多く発生します。梅雨にそれなりに雨の降る松戸の気候は、この梨にはあまり合わなかったようです。今のように殺菌剤が無い時代、覚之助氏も、かなり苦労してこの梨を育てていたそうです。ご存じの方も多いと思いますが、現在ではより気候の合う鳥取が、一大産地となっています。もちろん気候だけではなく、鳥取の方々の努力も大きかったことでしょう。

 覚之助氏が育てた二十世紀梨の原木は、戦後まで生きて残っていましたが。戦時中に空襲で被災し、戦後間もなくの1947年(昭和22年)、残念ながら枯死してしまいました。原木があった場所は「二十世紀が丘」と命名され、「二十世紀梨誕生の地」の碑が建ち、原木の一部は松戸市立博物館に収蔵、展示されています。私自身も小学生の頃、当時の市立博物館(今の博物館は平成5年、1993年からの物です。それ以前は、伊勢丹松戸店隣の松戸ビル内にありました。)で見たことがあります。

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マツモトキヨシ
 今の日本に住んでいて、マツモトキヨシの名前を知らない方は少ないでしょう。言わずと知れた、日本最大のドラッグストアチェーンです。このマツモトキヨシは、松戸に一号店が出来ました。その後店舗数を増やし、今の全国チェーンとなっています。現在でも本社は、松戸市新松戸にあります。
 冷静に考えると不思議な名前ですが、実はこれ、創業者の名前です。松本清氏が創業されたので、この名前になっています。松本清氏は当然ながら実業家ですが、松戸市とはそれ以外にも縁の深い方です。何せ市長さんでもありました。すぐやる課を日本ではじめて作った方でもあります。元々マツモトキヨシを育てた方ですから、その経験を生かして、市長としてもいろいろなことをされたようです。今で言う民間登用の先駆みたいな方ですね。
 松戸市の小金付近(北小金駅付近)には、「小金きよしケ丘」とか「小金清志町」とか、松本清氏にちなんだ地名が残っています。
 株式会社マツモトキヨシ

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マブチモーター
 言うまでもなく、小型モーターで最も有名な企業です。世界的に展開していると言う点では、マツモトキヨシ以上かもしれません。
 戦後の昭和の時代に子供時代を過ごした男性なら、名前を知らないはずもない、お世話になった企業ですね。模型用モーターの世界では、黄色地に青、そして赤で数字が入っていた箱を知らない人はいないでしょう。(最近の物は、赤が無くなってしまったようですが。)
 マツモトキヨシと違い松戸で創業したわけではないようですが、1965(昭和40)年に工場が建設されて以来、深い関わりのある企業のようです。現在では松戸市松飛台の松飛台工業団地に本社を構えていらっしゃいますが、今ここにあるのは、本社と研究機能の一部だそうです。
 マブチモーター株式会社

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